2009年06月16日

食中毒には数多くの原因菌等があるがその中の

食中毒には数多くの原因菌等があるがその中の代表的なものを以下に示す。

2006年度は、患者数別では、ノロウィルス、カンピロバクター、サルモネラ属菌の順であり、この3種が8割を占めた(厚生労働省 2007)。
アジアの美術
よの付く言葉
スポーツのあゆみ
くの付く言葉
名犬マルチーズ
雨模様
猫ニャン
柴犬について
生命の誕生
りんごのほっぺ
版画
オークション
映画館
射撃
応用数学
トリックアート
証券取引所
乗馬
高血圧症
ゲートボール

細菌性食中毒 [編集]
毒素型 - 細菌産生毒素の生理活性による食中毒。食品摂取時点で細菌類が不活化していても発症するため、抗生物質は不効。毒素が熱分解に弱い場合には加熱により不活化する。
黄色ブドウ球菌 - おにぎり、すし、おつくり。皮膚常在菌が食品へ移行し食品表面で増殖、毒素を産生する。潜伏期間短く3-6時間、耐熱性毒素のため調理加熱程度で不活化できない。耐熱性毒素ST(エンテロトキシンの一種)による。
ボツリヌス菌 - 発酵食品、いずし類、真空パック食品、キャビアの瓶詰め、ソーセージ。毒素型としては潜伏期間が長く、40時間の例もある。ボツリヌス毒素自体は熱分解しやすい。食中毒の初報告は独・腸詰め(ソーセージ)。
感染型 - 感染により体内増殖した細菌が病原性をもつことにより発症する。
腸炎ビブリオ - 夏期の未加熱魚介類、刺身、シラス等。海水の常在菌、発生ピークは6-10月。
サルモネラ属菌※ - 鶏卵、鳥肉→とくに夏期の自家製マヨネーズ、アイスクリーム。※腸チフス・パラチフスは除く
カンピロバクター、カンピロバクター症 - 牛・豚・鶏肉、鶏卵、生乳、牛刺し、レバ刺し。家畜・家禽の常在菌であるため、その生食にリスクがある。潜伏期間が2?7日と長い。
病原性大腸菌; 大腸菌参照- 原因食品の傾向をつかみにくい。 病原性を呈する大腸菌群全体を示す。→腸内での増殖、毒素産生をまつことから感染型に分類する諸家もいる。腸管出血性大腸菌O157(感染症法3類)がきわめて有名だが、感染症扱い。また、感染症にひきつづくベロ毒素(O111, O26他)による合併症TTP, 溶血性尿毒症症候群(HUS)も、用語としては一般的に「食中毒」として取り扱わない。接触感染することから、二次感染症との識別が極めて難しい。
リステリア属菌、食肉加工食品、生乳製品。潜伏期間は平均すると数十時間とされているが、患者の健康状態、摂取菌量、菌株の種類の違いにより発症するまでの期間は大きく左右されると考えられるため、その幅は数時間?数週間と長く、原因食品の特定が困難な場合もある。主に、胃腸炎症状。まれにインフルエンザ様症状。重篤な場合、脳脊髄膜炎などの神経系統症状。母子垂直感染による流産。
中間型
ウェルシュ菌 - 学校給食、料理作り置きなど保冷=解凍サイクルに乗じて増殖する。加熱調理・煮込み課程において不活化を免れた芽胞が保冷サイクルにおいても生存し、解凍時の加熱によって食品内で増殖する。経口時までに活性量の芽胞・菌体量が確保されることにより体内に侵入、消化刺激から芽胞を形成するときにエンテロトキシンを生成し発症する。芽胞+, 耐熱性 潜伏期間8-24時間
セレウス菌 - 芽胞は100℃ 10分の条件でも不活化されず、熱後においても芽胞を形成し体内に侵入、下痢・嘔吐等の発症にいたる。
分類不明
エルシニア菌

ウイルス食中毒 [編集]
ノロウイルス
ロタウイルス
A型肝炎ウイルス
E型肝炎ウィルス
野生動物肉や狩猟肉(ジビエ, gibier>シュヴルイユ, chevreuil; game meat)喫食に起因する急性肝炎を起こすことがある

2009年05月30日

江戸城から皇居へ

すでに大久保利通は正月下旬の時点で、京都には旧弊が多いとして大阪遷都論を政府へ提出し、木戸もこれに強く賛同している。これには公家などから反対が多く、結局大阪行幸の実行に留まったが、大久保・木戸らの間で遷都論は燻り続けていた。そんな中、江戸城が無血で新政府の管轄に入ったことは、遷都先として江戸が急浮上することに繋がった。

9月8日、年号が明治と改元されると、同月20日明治天皇が東京(7月に江戸から改称)行幸に出発し、10月13日に江戸城に到着。同時に名を「東京城」と改められ、東幸の際の皇居と定められた。幕府のシンボルであった江戸城に天皇が入ることで、天皇が皇国一体・東西同視のもと自ら政を決することを宣言するデモンストレーションともなった。この後、再度の東幸が行われるとともに、首都機能が京都から東京へ次々と移転。事実上東京が首都と見なされるようになり、東京城はやがて「宮城」「皇居」と呼ばれるようになったのである。

当時、人口100万人を超える世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込まずにすんだことは、江戸開城の最大の成果であった。勝は後に西郷を「江戸の大恩人」と讃えている。また、江戸開城は一連の戊辰戦争の流れの中で、それまで日本の支配者であった徳川家が、新時代の支配者たるべき明治新政府に対して完全降伏するという象徴的な事件であり、日本統治の正統性が徳川幕府から天皇を中心とする朝廷に移ったことも意味した。諸外国の立場もこれ以降、局外中立を保ちながらも、新政府側へ徐々にシフトしていく。以後の戦いは、新政府軍の鎮撫とそれに抵抗する東北諸藩という構図で語られることが多くなる。また江戸時代に事実上日本の首都機能を担った江戸という財産が、ほぼ無傷で新政府の傘下に接収されたことは、新国家の建設に向けて邁進しつつあった新政府にとっては、大きなメリットになったと言える。
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その一方で、無血開城という事実が一人歩きし、内外に戊辰戦争全体が最低限の流血で乗り越えられたといういわば虚像をも産むことになる。しかし江戸開城自体は、戊辰戦争史全体の中では序盤に位置する事件であり、それ以後の長岡・会津・箱館まで続く一連の内戦は、むしろこれ以降いっそう激化していったのであり、決して内戦の流血自体が少なく済んだわけではない。江戸城という精神的支柱を失った幕臣たちの中にも、榎本の艦隊とともに北上し、戊辰戦争を戦い続ける者たちも少なくなかった。

江戸城が無傷で開城したことは半ば予想されたこととはいえ、新政府の主要士族メンバーにとっては拍子抜けでもあった。なぜなら、以前より軍事的衝突を回避しようとしていた松平春嶽ら列侯会議派が常に政府の主導権の巻き返しを図ろうとしていたうえ、にわか仕立ての新政府軍はその実、統一日本国の軍隊ではあり得ず、事実上諸藩の緩やかな連合体に過ぎなかったため、諸藩の結束を高めるためには強力な敵を打倒するという目的を必要としていたからである。そこで諸藩の団結強化のため、江戸城に代わる新たな犠牲として想定されたのは、先の降伏条件でも問罪の対象として名指しされた松平容保の会津藩(および弟の松平定敬)であり、また去就を明らかにしていなかった東北諸藩であった。実際、徳川慶喜に対する処分にはそれほど強硬ではなかった木戸孝允も、大久保利通に対して会津藩を討伐しなくては新政府は成り立たないと述べており[52]、大久保も賛同している[53]。

また、江戸城とともに従来の幕府の統治機構である幕藩体制がほぼ明治政府に継承されたことは、強力な政府の下に富国強兵を図り、欧米列強に対抗しうる中央集権的な国家を形成しようとしていた新政府にとっては、旧弊を温存することにもなりうる諸刃の剣であった。結局のところ近代国家を建設するためには、各地を支配する藩(大名)の解体が不可避であり、いったん藩地と人民を朝廷に返還する手続きを取ったのち(版籍奉還)、さらに最終的には幕藩体制自体を完全解体する廃藩置県というもう一つの革命(こちらの革命は正真正銘無血で行われた)を必要としたのである。

2009年04月27日

日本戦車師団の装備・編成の変遷

大日本帝国陸軍では、1934年(昭和9年)3月に編成された小型機甲師団ともいうべき独立混成第1旅団(2個戦車大隊基幹の諸兵科連合部隊)が、戦前では唯一のものであった。独立混成第1旅団も、参加したチャハル作戦で特長を生かせず、1938年(昭和13年)8月には解隊されてしまった。東條兵団の兵団長である関東軍参謀長東條英機中将と独立混成第1旅団長酒井鎬次中将の戦術思想の違いに一因があったとも言われる。以後は、3個戦車連隊と司令部のみからなる「戦車団」3個を有していた。ノモンハン事件では第1戦車団を中心に歩兵などを臨時に配属した運用が行われたほか、中国大陸の戦線においては「戦車集団」が何度か臨時に編成され機動打撃力として活動したものの、戦車を中心とした戦術思想を否定した東條英機が、その後権力の中枢に就いたこともあり機甲師団が編成されることは無かった。

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だが、ドイツの電撃戦に影響を受け戦車の有用性は認識され、1941年(昭和16年)2月には機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。そして1942年(昭和17年)6月24日に戦車第1師団・第2師団・第3師団の編成が下令された。しかしその編制は、既に太平洋戦争が始まっていたにもかかわらず対ソ連戦を念頭においたものであった。しかも、理論上は2個戦車旅団(各2個連隊構成、各連隊は戦車58輛保有)・1個機動歩兵連隊(3個大隊構成)を基幹に機動砲兵連隊・師団速射砲隊・師団捜索隊・師団防空隊・師団工兵隊等から編成されることになっていたが、部隊は編成されたものの肝腎の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、その編制すら満足になることはなかった。

1944年(昭和19年)7月6日には、本土決戦に備えて戦車学校などの教導部隊を改編し、戦車第4師団の編成が下令された。戦車連隊3個を基幹にするものの歩兵を欠き、砲兵も最初から分属させるなど戦車第1・第2・第3師団と較べて全く異なる編制で、独立戦闘力のある機甲師団とは呼びがたいものだった。

2009年04月11日

中世西洋音楽

中世西洋音楽(ちゅうせいせいようおんがく)は、6世紀頃から15世紀にかけての音楽を指す。これ以前は古代音楽になるが、楽譜が残されていないため明確ではない。中世西洋音楽は、時代的にも、地域的にも、音楽の目的、形式からも極めて多様であり、これらをひとつの音楽ジャンルとするのは、「時代」として区分しているに過ぎない。中世音楽に続くものはルネサンス音楽である。大切なのは、中世からの音楽資料(写本など)がネウマ譜などにより現在にまで残されているという事実であるが、当時の演奏については想像するしか方法がない。当然、ヨーロッパにおける民族音楽やワールドミュージックといったジャンルとも連続性がある。作曲者不詳anonymousのものが多いが、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、レオニヌス、マショーなどの作曲家がよく知られている。イギリスのダンスタブル(1453年死没)、ルネサンス音楽の開拓者デュファイ(1474年死没)は、中世音楽からルネサンス音楽への移行期に位置づけられる重要な作曲家である。中世・ルネサンス音楽( - 1600年ごろ)をまとめて、初期音楽 early musicということがある。

単旋律の音楽としては、グレゴリオ聖歌をはじめとするキリスト教の聖歌や、トルバドゥールやトルヴェールに代表される世俗音楽がある。スペインのカンティガは、アラブ世界との関連があり素朴な美しさを持つ音楽である。

多声音楽は、9世紀にスイスで始まったと言われ、12世紀以降、ゴシック期のフランスを中心に発展する。サンマルシャル楽派、続いてノートルダム楽派を含むアルス・アンティクア(13世紀フランスの多声音楽)、アルス・ノーヴァ(14世紀フランス音楽)、トレチェント音楽(14世紀イタリア音楽)、アルス・スブティリオル(14世紀フランスの歌曲様式)などの様式が用いられた。
中世音楽の例 [編集]
アンブロジウス聖歌
グレゴリオ聖歌
モザラベ聖歌
ソールズベリー聖歌
トルバドゥール、トルヴェール、ミンネゼンガー
典礼劇(ダニエル劇など)
カルミナ・ブラーナ(ゴリヤードの唄)
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
レオニヌス(ノートルダム楽派、ゴシック音楽)
ペロティヌス(ノートルダム楽派、ゴシック音楽)
ギョーム・ド・マショー(アルス・ノーヴァ)
モンペリエ写本
フランチェスコ・ランディーニ(トレチェント)
シャンティー写本(アルス・スブティリオル)
カンティガ:アルフォンソ10世(1221-1284)編集による聖母マリア讃歌
モンセラートの朱い本
カリクストゥス写本
ラス・ウエルガス写本

中世に使用された楽器 [編集]

弦楽器 [編集]
レベック(弓奏リュート。リュートもしくはヴァイオリン属) en:Rebec
フィドル(またはヴィエレ。ヴァイオリン属) en:Vielle
リュート
ギターン(小型リュート) www.diabolus.org : gittern
シトル(中世ギター) www.crab.rutgers.edu : citole
プサルテリウム(ツィター属」) en:Psaltery
ダルシマー (またはドルチェ・メロス。打奏ツィター) en:Hammered dulcimer
ライアー(またはリラ。竪琴)
クルース(またはクロッタ。弓奏のリラ属) en:Crwth
中世ハープ www.music.iastate.edu : harp
ハーディガーディ(またはオルガニストルム、シンフォニアとも。)

管楽器 [編集]
クルムホルン(オーボエ属) en:Crumhorn
シャルマイ(またはショーム、ピッファロとも。オーボエ属) en:Shawm (日本にはチャルメラという名で伝わる)
リコーダー(縦笛。フルート属)
ファイフ(横笛。フルート属)
ゲムスホルン(閉管式の指孔のある角笛。フルート属) en:Gemshorn
ツィンク(指孔のある角笛。ホルン属) en:Cornett (角笛から木管のコルネット(cornett)が生じたが、現在のコルネット(cornet)とは異なる)www.music.iastate.edu : zink
サックバット(トロンボーン) en:Sackbut
トロンバ(またはブイジーネ:中世ナチュラルトランペット) en:Buisine  ,  www.instrumentsmedievaux.org : trompette
中世ミュゼット(あるいはコルネミュゼ。バグパイプ属) pa-cabiran.instrumentsmedievaux.org : cornemuses medievales
オルガン (固定式オルガン、ポシティフ・オルガン)
オルガネット(手持ちオルガン、ポルタティフ・オルガン) de:Portativ

打楽器 [編集]
タンブラン(中世プロヴァンス太鼓)
タンバリン

関連項目 [編集]
グレゴリオ聖歌
中世イギリスの音楽
クラシック音楽
ルネサンス音楽
中世西洋音楽の作曲家一覧
古楽
古楽器
古代西洋音楽
古代の音楽

プロフ幸 かぶらな とらが ラマダ オガタ ビラ 五色の雲 スポット パネラー 梅園 モラハラ カラー 知っ得 クラート アノレ シュホン ゲレンデ ペンイ カーハート カウガール ドラッ ゲーテ マジョラ ナベルト トバン ロドプシ ボルマーク 広場 ミキサー ボルダ トハングリー マッシ ビクトリ トリウム マグナカル モナコ バンパ フォトレ アッペ こまいぬ オキサイド テーラ ルーム はぐろ クセル スタブ 大麦若葉 けつがん ナツツ プラット

2009年03月27日

経験主義者セクストス

ピュロン主義者であり医者でもあったセクストス・エンペイリコス(エンペイリコスとは名前ではなく経験主義者というあだ名である)は[10]、ピュロン主義とその他の学派との相違を次のように伝えている。

人々が何か物事を探究する場合に、結果としてありそうな事態は、探究しているものを発見するか、あるいは発見を拒否して把握不可能であることに同意するか、あるいは探究を継続するかのいずれかである。たぶんこのゆえにまた、哲学において探究される事柄についても、真実を発見したと主張した人々もいれば、真実は把握できないと表明した人々もおり、またほかに、さらに探究を続ける人々もいるのであろう。そしてこのうち、真実を発見したと考えるのは、アリストテレス学派、エピクロス学派、ストア派、その他の人々のように固有の意味でドグマティストと呼ばれている人たちであり、また、把握不可能であると表明したのは、クレイトマコスやカルネアデスの一派、およびその他のアカデメイア派であり、そして探究を続けるのは懐疑派である。

? セクストス『ピュロン主義哲学の概要』, 金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.6.

ここでセクストスは、ピュロン主義を独断論および不可知論と対立するものとして提示している。但し、このような分類はやや割り切り過ぎなのではないかという見解もあり、特に初期のアカデメイア派を不可知論に属せしめてよいのかについては今日では疑問が呈されている[11]。セクストスによれば、懐疑主義の目的は、「思いなしに関わる物事における無動揺[平静]と、不可避的な物事における節度ある情態である」[12]。

というのも、懐疑主義者はもともと、諸々の表象を判定して、そのいずれが真であり、いずれが偽であるかを把握し、その結果として無動揺[平静]に到達することを目指して、哲学を始めたのであるが、けっきょく、力の拮抗した反目のなかに陥り、これに判定を下すことができないために、判定を保留したのである。ところが判断を保留してみると、偶然それに続いて彼を訪れたのは、思いなされる事柄における無動揺[平静]であった。

? セクストス『ピュロン主義哲学の概要』, 金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.20.

もっとも、あらゆる事柄について判断を留保するのではなく、表象(感覚へのそのままの現れ)として不可避的に受け取っている事態についてはこれを承認する[13]。つまり、セクストスの説明によれば、知識が何らかの不明瞭な物事に関係しているという意味でのドグマを持たないという意味で、ドグマを持たないのである[14]。同様に、ピュロン主義者は、「万物は虚偽である」とか「何事も真理ではない」とは言わずに、「私にとっては今のところ何事も把握不可能であるように思われる」とか「私は今のところこのことを肯定もしないし否定もしない」という慎重な言い回しを用いる[15]。

このようなピュロン主義は、セクストスが伝えているところによれば、新旧異説を合わせて全部で17の議論の仕方を有している。伝統的な10の方法は、次の通りである[16]。

動物相互の違いにもとづく方式:例えば犬と魚とバッタは異なるように物を見ているかもしれない[17]。
人間同士の相違にもとづく方式:例えば人によって身体構造が異なるということ[18]。
感覚器官の異なる構造にもとづく方式:例えば絵は視覚によれば奥行きがあるように見えるが触覚によれば平面であること[19]。
情況にもとづく方式:例えば一般人と神がかりに合っている人は異なる表象を持つこと[20]。
置かれ方と隔たり方と場所にもとづく方式:例えば、船は遠くから見ればゆっくり動いているように見えるが近くから見れば速く動いているように見えること[21]。
混入にもとづく方式:(注:この箇所は現代の知識から見るとかなり分かりにくい内容になっている。例えば身体は水中では軽くなり空気中では重くなると言われているが、これはいわゆる重量が周辺の物質との混合によって変化していると考えられていたものと解される)[22]。
事物の量と調合にもとづく方式:例えば酒を飲み過ぎると害になるが適度に飲めば健康になるということ。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

相対性にもとづく方式:すなわち物事は主体に応じて異なるということ。
頻度にもとづく方式:例えば彗星はたまにしか現れないので驚かれるが、彗星が頻繁に現れるようになれば驚かれなくなるであろうこと[24]。
様々な説の対置による方式:習慣、法律、神話および学説がばらばらであること

2009年03月11日

カラクムル(Calakmul)

富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

カラクムル(Calakmul)は、メキシコ、カンペチェ州にある先古典期後期から古典期にかけて繁栄したマヤ「中部地域」の大都市。1931年に発見され、その規模は30km?に及び、マヤ遺跡では最多の117基もの記念碑(恐らく石碑(Stela)のほかに祭壇やその他文字記録が刻まれた彫刻等の石造物を指す)が確認されており、ティカル(Tikal)と並ぶ古典期最大級の「都市」である。紋章文字(Emblem Glyph)は、蛇の頭で表現され、その旧名は、オシュテトウン(三つの石)と呼ばれていたこと、他の遺跡の碑文でも「蛇(カーン)」王朝という強大な国の首都として記述されていたことが最近判明している。
5世紀の初め頃の日付けを示す石碑や彩色土器が見つかっていることからカラクムルの王朝が始まるのはこの時期と考えられるが、王の即位日が長期暦(maya Long Count Calendar)で記されていないため時期が確定できない。一説によると「カーン」王朝がカラクムルを首都としたのは6世紀に入ってからではないかと考えられている。 546年、トゥーン・カップ・ヒシュ王は、ナランホ(Naranjo)王アフ・ウォサルの即位を後見したことが記録されている。次の王は、「空を見る者」と呼ばれる王で562年に現ベリーズにあった「オシュウィツア」(カラコル)を支援して「ムトゥプル」(ティカル)を破り、以後中部低地において覇権を確立した。全盛期はタホーム・ウカッブ・カック(「燃え上がる手」)王(位622?630)、「ユクノーム頭」王(位630?636)、「大ユクノーム」(ユクノーム・チェン2世)王(位636?686)の時代である。タホーム・ウカッブ・カックのとき、626年、決別を図ろうとするナランホ王を2度にわたって破った。「ユクノーム頭」王のとき、631年にナランホに対して決定的な勝利をおさめ、その君主を屈辱的な殺し方で殺した。「大ユクノーム」王のとき、南方約180kmに位置するグアテマラ・ペテシュバトゥン地方に「ムトゥプル」(ティカル)の王族の一人が建てた新王朝のドス・ピラス(Dos Pilas)を支援して「ムトゥプル」を牽制した。しかし、次の王のユクノーム・イチャーク・カック(「燃え上がる鉤爪」「ジャガーの足」)王のとき、695年、復興した「ムトゥプル」(ティカル)の王ハサウ・チャン・カウィール1世に敗れて以後、急速に衰退した。

カラクムルで最大級の建物は、建造物2号で、一辺120m、高さは45mに達する。2002年に世界遺産に登録された。

1984年から1994年にかけてウィリアム・フォーランによる調査が行われた。1994年からは、ラモン・カラスコに率いられたメキシコ国立人類学歴史学研究所の大規模な調査プロジェクトが実施中である。

2009年02月23日

中国官話

中国官話は中国語の方言区分の一つ。官話方言(かんわほうげん)ともいわれる。言語としては広義の北方方言(ほっぽうほうげん)、北方話(ほっぽうわ)、北方語(ほっぽうご)、北語(ほくご)などの呼称がある。また共通語という意味で官話(かんわ)も用いられる。なお方言区は北方のみならず南方にまで及んでいるため、「北」とすることに異議が唱えられることもある。欧米ではマンダリン(Mandarin)と言われる。普通話の基礎となる方言である。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

中国官話の代表は、北京語・天津語・東北語・西安語・成都語・南京語・揚州語などである。中国の東北・華北・西南・江淮一帯の広い範囲に及んでおり、その使用率は漢民族人口の73%を占める。ただし山西省を中心に話され、太原語を代表とする晋方言(晋語)は独立した大方言区とすべきとの意見がある。また下位方言の江淮方言(下江官話)については呉方言に含めるべきとの意見もある。これは他の中国官話では消滅した入声(音節末子音が閉鎖音のもの)があるためである。

中国官話はさらに4大下位方言に区分される。

華北東北方言(北京官話 、東北官話、冀魯官話、膠遼官話)- 北京・天津・黒竜江省・吉林省・遼寧省・河北省・河南省・山東省と内蒙古の一部。
西北方言(中原官話、蘭銀官話) - 陝西省・甘粛省・山西省の全域と青海省・寧夏・内蒙古の一部、及び中央アジアのドンガン人居住区。
西南方言(西南官話) - 四川省・雲南省・貴州省、湖北省の大部分、広西省西北部、湖南省西北部。
江淮方言(江淮官話) - 安徽省・江蘇省の長江以北の地域(ただし、徐州・蚌埠は除く)、江蘇省の鎮江以西から江西省九江以東にいたるまでの長江南岸地域。
共通語
中国官話が官話と呼ばれるのは、17世紀、華南に渡来した宣教師が,土着の言語のほかに官署で話されている公用語があることに気づき、これを官僚(マンダリン Mandarin)の言語と呼んだことに由来する。当時、官話の規範となったのは南京の音にもとづく南京官話であった。清朝になると漢民族を征服した満洲民族が北京を首都としたため、官話の中心は徐々に北京音をもとにした北京官話へと移っていった。清代の官話政策は、雍正期に提議され、福建省には「正音書院」と呼ばれる官話の音を学ぶ書院が立てられ、広東省には民間の粤秀書院などを支援して官話教育を担わせた。また教科書として『正音摂要』『正音咀華』などがつくられている。中華民国に入ると、国語運動がおこり、官話を国語という名称に変えて共通語とする政策がなされたが、北京官話とか官話といった名称は依然として使われた。中華人民共和国が成立してからは北京語音を標準音とし、中国官話の語彙をもとにして、共通語である普通話が作られた。

満洲語の流入
清朝の約300年の支配の間にはぐくまれた北京官話には支配民族である満州民族の言語満州語の語彙が幾つか含まれている。これらは、おもに宮廷で使用されたものであるが、『太太(おばちゃん)』などは現在も一般に普及している。

普通話はこれら満州語の語彙を排除したものである。この点ではオスマン帝国のオスマン語とトルコ語の関係と似ている。

方言・言語
官話は上記のように本来は官僚の共通語の意味であるが、現在は方言名・言語名として使われることがある。この場合、「?方言」という代わりに「?官話」ということがある。

特徴
清濁の対立 - 存在しない。
歯擦音 - 歯茎音[s, ?, ??]とそり舌音[?,?,??, ???]の区別が存在する。
鼻韻母 - [n]と[ŋ]の区別はあるが、[m]はなく[n]に合流している。
入声 - 大部分の地域では消滅しているが、いくつかの地域には[?]が見られる。
声調 - 一般的に4つであるが、3つや5つの地域もある。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%AE%98%E8%A9%B1" より作成

2009年02月07日

二条良基

二条 良基(にじょう よしもと、元応2年(1320年)- 嘉慶2年6月13日(1388年7月16日))は、南北朝時代の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

父は二条道平、母は西園寺公顕の娘婉子。兄弟姉妹に後醍醐天皇女御の栄子、富小路道直、二条師基(南朝関白)。妻は土岐頼康の娘。子に二条師良、二条師嗣、道意、満意、一条経嗣(一条兼良の父)。猶子に四辻善成、今小路基冬(満済の父)がいる。

生涯
8歳で元服して正四位下侍従となり、わずか2年で従三位権中納言に昇進する。鎌倉幕府滅亡後に京都で建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕える。1336年に後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝(吉野朝廷)を成立させる。叔父の師基は南朝に参じ、良基もまた天皇を深く敬愛していたにもかかわらず、京都にとどまり、北朝の光明天皇のもとで権大納言となった。足利将軍家が擁する北朝の公卿として朝儀・公事の復興に努め、1346年には光明天皇の関白・藤氏長者となる。

やがて足利氏の内部抗争から観応の擾乱が起こり、1351年に足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、北朝天皇や年号が廃止され、良基も関白職を停止される。翌1352年に和睦が決裂すると、足利将軍家の意向と勧修寺経顕の説得を受けて復職し北朝の再建に尽力する。光厳上皇・崇光天皇らは南朝に拉致されていたため、光厳上皇の母広義門院の命によって、新たに崇光の弟弥仁王後光厳天皇を擁立する。だが、朝廷では三種の神器のない天皇の即位に対して異論が噴出した。その際、良基は「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)。その翌年には、南朝側の反撃によって足利義詮が天皇を連れて美濃国に退去する緊急事態が起きると、病身を押して同行するなど、北朝のために挺身した(この行幸の際に書かれた仮名日記が『小島のすさみ』である)。だが、京都を占領した南朝軍は二条邸に遺された摂関家ゆかりの文書・家宝などをことごとく没収したと言われている。その後1358年に関白を九条経教に譲ったものの、1363年から4年間再度関白を務めている。

有職故実にも深く通じており、1366年に年中行事歌合を主催して、朝廷儀礼や王朝古典の研究を進めた。そして室町幕府の三代将軍となる足利義満に宮中の故実作法や文化教養を教授して、義満のために『百寮訓要抄』を著した。1376年に准三宮、81年には太政大臣となり、1382年には後小松天皇の摂政を勤めた。1387年に近衛兼嗣に摂政を譲るが、翌年に兼嗣が急死する。そこで良基が再度摂政に復帰するが、病が重くなり息子・師嗣を後任の関白[1]に据えた直後に69歳で死去した。

文化的活動として和歌や連歌、蹴鞠などに通じ、わけても連歌の大成者として知られる。1356年には救済とともに『菟玖波集』20巻を撰したほか、『筑波問答』『九州問答』『十問最秘抄』どの連歌論書を著し、1372年には連歌式目として応安新式を制定する。歌論書として『近来風躰』、『愚問賢注』(頓阿との問答)。仮名文の執筆にも長じて『小島のすさみ』『衣かづきの日記』『さかき葉の日記』『雲井の花』『永和大嘗会記』『雲井の御法』などの宮廷行事の記録を著す。『増鏡』の作者とする説もある。また、勅撰和歌集である『新後拾遺和歌集』仮名序も良基の作である。また、当時社会的評価が低かった猿楽能に理解を示して、少年時代の世阿弥に対して保護を加えたことも知られている。

その一方で足利尊氏・義満に深く接してその後ろ盾を得て、4度にわたって摂政・関白の座に就くなど、権力や名誉に対しては飽くなき野心家として見られることも多く、対立する南朝側のみならず北朝側の人々の中にも嫌悪感を持った人は少なくなかったといわれている。

官職位階履歴
※日付=旧暦
嘉暦2年(1327年)
8月9日、元服し、禁色を許され、正五位下に叙位。  8月14日、侍従に任官。
9月21日、左近衛少将に転任。  9月22日、従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。  9月28日、左近衛中将に転任。
嘉暦3年(1328年)
1月5日、従四位上に昇叙し、左近衛中将如元。
3月16日、従三位に昇叙し、左近衛中将如元。
嘉暦4年(1329年)
6月28日、権中納言に転任し、左近衛中将如元。
元徳2年(1330年)
1月5日、正三位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。
正慶元年(1332年)
4月15日、権中納言を辞任。
元弘3年(1333年)
5月17日、権中納言に還任。
6月12日、従二位に昇叙し、権中納言如元。
延元元年(1336年)
3月2日、権大納言に転任。
建武4年(1337年)
8月8日、正二位に昇叙し、権大納言如元。
暦応元年(1338年)
10月19日、左近衛大将を兼任。
暦応3年(1340年)
7月19日、内大臣に任。  7月24日、左近衛大将如元。
暦応5年(1342年)
3月30日、東宮(興仁親王、のちの崇光天皇)傅を兼。
12月21日、左近衛大将を辞。
康永2年(1343年)
4月10日、右大臣に転、東宮傅如元。
貞和2年(1346年)
2月29日、関白宣下、内覧宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。右大臣・東宮傅如元。
貞和3年(1347年)
1月5日、従一位に昇叙し、関白・内覧・藤原氏長者・一座・右大臣・東宮傅如元。
9月16日、左大臣に転任。
貞和4年(1348年)
10月26日、東宮傅を辞任。
貞和5年(1349年)
9月13日、左大臣を辞任。
延文3年(1358年)
12月29日、関白を辞、内覧宣下。
貞治2年(1363年)
6月27日、関白宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。内覧如元。
貞治6年(1367年)
8月27日、関白を辞すも内覧宣下。
永和2年(1376年)
元日、准三宮宣下。
永徳元年(1381年)
7月23日、任太政大臣
永徳2年(1382年)
4月11日、摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。准三宮・内覧・太政大臣如元。
永徳3年(1383年)
10月20日、内舎人随身を賜る
至徳4年(1387年)
1月8日、太政大臣を辞任。
2月7日、摂政を辞す。内覧宣下。
嘉慶2年(1388年)
4月8日、摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。
6月13日、薨去。享年69  号:後普光園院摂政太政大臣。

2009年01月22日

対日戦争を第二次国共合作によって乗り切り

対日戦争を第二次国共合作によって乗り切り、第二次世界大戦終結後の1947年9月に「人民解放軍総反抗宣言」を発表し初めて人民解放軍の名称を使用。国共内戦により中国国民党勢力を大陸から台湾へ駆逐する。これらの戦いで功績のあった軍の長老が長く君臨し、今の政治人脈に引き継ぐ事となる。

1937年-1945年 日中戦争。
1946年 国共内戦が始まる。
1949年 蒋介石が南京を脱出し中華民国国軍とともに台北へ。 国共内戦の休戦。
1950年10月 一部は中国人民志願軍として朝鮮戦争に参戦。1953年まで (中国人民志願軍も参照)
1950年 チベット侵入
1954年-1955年 第一次台湾海峡危機
1958年 第二次台湾海峡危機 (金門砲戦)
1959年9月から1962年11月まで 中印国境紛争 (中ソ対立も参照)
1969年-1978年 中ソ国境紛争
1974年 南ベトナムと西沙海戦(w:Battle of Paracel)
1979年 中越戦争
1986年-1988年 ベトナムと国境紛争、南沙海戦(w:Spratly Island Skirmish (1988))
1989年 六四天安門事件
1995年-1996年 第三次台湾海峡危機 (w:Third Taiwan Strait Crisis」 (台湾有事も参照)

国共合作から国共内戦時の構成
第1野戦軍(司令員/政治委員・彭徳懐)
第2野戦軍(司令員・劉伯承、政治委員・鄧小平)
第3野戦軍(司令員/政治委員・陳毅)
第4野戦軍(司令員・林彪、政治委員・羅栄桓)
華北軍区(司令員・聶栄臻)
元老には十大元帥と呼ばれる軍閥代表者が居る。彭徳懐・劉伯承・陳毅・林彪・羅栄桓・聶栄臻・賀竜・朱徳・徐向前・葉剣英がそのメンバーであり、老総(ラオゾン)とも呼ばれる。

各軍管区へは、軍閥の影響力を削ぐ為に各野戦軍より選出した部隊で混成される。主力に位置される部隊は、権力闘争に勝ち残った第3野戦軍系部隊があげられる。

組織
中華人民共和国軍事委員会の下に総参謀部、総政治部、総後勤部、総装備部の四総部があり、その下に海軍、空軍、第二砲兵(戦略ミサイル部隊)および七大軍区が置かれている。 また国防科学技術工業委員会、軍事科学院、国防大学なども軍区級組織である。国務院の国防部は外国との軍事交流などを担当しているだけで、人民解放軍に対する指揮権を持っていない。国務院の管轄下にない解放軍はあくまで党の軍隊であり、国家の軍隊ではないとする。党と軍の関係については、憲法で中央軍事委員会の指導下にあると規定されているが党主席とは記載されていない。そのため、毛沢東など歴代の最高指導者は軍事委員会主席を兼任している。

人民解放軍が党の軍である、という立場をとるのは暴力装置である国家を操作する立場である共産党が、国家の最大の暴力装置である軍隊を管理するのは当然であると考えられたからである。建前上、人民解放軍は人民の軍隊であり、革命を遂行・防衛するための軍隊であるとされている。しかし、ソビエト連邦では第二次世界大戦後の1946年に赤軍を国家の軍隊であるソビエト連邦軍に改組している。

第二次天安門事件が発生した時に、人民解放軍が、民主化勢力(民主化運動に理解を示していた一部の政府中枢を含む)と共産党保守派のどちらかに付くかを、全世界が注視したが、中央軍事委員会主席の命令について民主化勢力の弾圧を行った。人民解放を冠した軍隊が人民を弾圧した光景は第一次天安門事件の時に四人組からの命令を最後まで無視した姿とは余りにも対照的であったが(四人組は最終的には民兵を動員した)、人民解放軍の行動は中央軍事委員会主席の一言に左右されている事を知らしめた。この弾圧によって、国際社会の人民解放軍を見る目がいっそう厳しくなり、中国人の中にも「人民を抑圧している軍隊」という印象を持ち、人民解放軍に失望した人がいた。しかし、その後の1998年の災害派遣での活躍等により、イメージの改善は見られている。

災害派遣の映像
災害派遣の様子(米軍との比較)

災害派遣の特集番組

中国共産党中央軍事委員会

中華人民共和国中央軍事委員会も参照
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

主席:胡錦涛(国家主席、党総書記)
副主席:
郭伯雄(1942.07-、上将、党中央政治局委員)
徐才厚(1943.06-、上将、党中央政治局委員)
委員:
梁光烈(1940.12-、上将、前軍総参謀長)
廖錫竜(1940.07-、上将、軍総后勤部部長)
李継耐(1942.07-、上将、軍政治部主任)
陳炳徳(1941.07-、上将、軍総参謀長)
靖志遠(1944.12-、上将、第2砲兵司令員)
許其亮(上将、空軍司令員)
呉勝利(上将、海軍司令員)
常万全(1949.01-、上将、軍総装備部長)
 ※ 中国共産党第17期中央委員会第一回全体会議(2007年10月22日)選出

2009年01月15日

抗炎症薬(こうえんしょうやく)

クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

抗炎症薬(こうえんしょうやく)とは炎症を抑える医薬品の総称である。炎症そのものは異物の侵入や組織の障害といった生体組織にとって好ましくない刺激が発生した時に免疫系が引き起こす局所的な防御反応であるが、生体にとっての非自己の排除を助ける一方で自己である生体そのものにも一定の損傷や苦痛を引き起こす性質も持つ。医療に際して、生体の引き起こした炎症が過剰に人体を傷つけているアレルギー疾患や、外部から炎症を引き起こす生理活性物質が注入されることによって起こるスズメバチ刺傷、ドクガ刺傷などの治療に際してはこの炎症のデメリットを抑制する必要があり、そうした目的で用いられる医薬品が抗炎症薬である。主にステロイド系抗炎症薬と非ステロイド系抗炎症薬の2種類に分類される。

ステロイド系抗炎症薬

ステロイド系の抗炎症薬は副腎皮質ホルモンの糖質コルチコイド、合成糖質コルチコイドのことである。 ステロイドは非常に優れた抗炎症作用を持つ一方、免疫抑制作用や副腎萎縮、胃腸障害、白内障、緑内障、ムーンフェイスなど多くの副作用も持つ。 ただし、適切に使用すれば非常に優秀な医薬品であるので必要以上に怖がることはない。 ステロイドを使用するうえで一番恐ろしいことは、個人で勝手に判断して急に使用を中止することである。

しかし、ステロイド皮膚症と言われる疾患には注意が必要である。近年裁判などにもつながっている薬害訴訟はこのステロイド皮膚症からのものも多い。長期間にわたってステロイド剤を使用することにより、副腎皮質ホルモンの精製がうまくいかなくなるなどの重大な副作用がステロイド剤にはある。特に体に塗ったステロイド剤が、このような副作用から顔面に皮膚症となり何年も克服に時間がかかるなどの被害が続出して

非ステロイド系抗炎症薬

非ステロイド系抗炎症薬(NSAIDs:Non Steroidal Antilnflammatory Drugs)には抗炎症作用のほか、鎮痛作用、解熱作用を併せ持つものが多い。 非ステロイド系抗炎症薬は更に酸性抗炎症薬と塩基性抗炎症薬に分けることができる。 酸性抗炎症薬は一般に広く使用されておりアスピリン、イブプロフェン、インドメタシンなどがこれに分類される。 酸性抗炎症薬はアラキドン酸からロイコトリエンを合成する酵素であるシクロオキシゲナーゼ(COX)を阻害することによってケミカルメディエーターの一種であるロイコトリエンやプロスタグランジンの合成を阻害し、炎症が起きるのを抑える。 胃腸障害、肝障害、腎障害、造血障害、SJ症候群、アスピリン喘息が共通の副作用として知られている。